おがわ温泉花和楽の湯

「春のせせらぎ 小川町 花和楽の湯 雛御殿祭り」開催中

「春のせせらぎ 小川町 花和楽の湯 雛御殿」

令和5年春

 

埼玉県中央にございます小川町は、別名「武蔵の小京都」とも呼ばれております。江戸時代から交通の要所として、また宿(しゅく)として栄え、和紙、裏絹、日本酒、木工、建具等名産物もたくさんございました。

 

そんな歴史ある風情たくさんの小川町に、2004年4月に「おがわ温泉 花和楽の湯」は開湯いたしました。お陰様で開湯以来、節句の室(しつ)礼(らい)を館内に飾らせていただいてきました。

 

 

さて、この時期は「桃の節句」ですが、雛祭りの別名を「桃の節句」とも言うのは、その時期にちょうど桃の花が咲いているからではありません。

 

古代の中国では、木の中で最も貴いとされていたのが桃で、邪気や悪霊を祓う神聖な木と信じられていたからです。桃太郎が鬼退治をしたという昔話は、鬼という邪気を桃が祓ったという伝承から厄除けを意味しています。

 

 

古代中国には、三月最初の巳の日に川に入り穢れ(けがれ)を清める上巳(じょうし)節(ぶし)という催しがありました。それが日本に伝わり日を固定した方が便利だということで、奈良時代に3日に定められ、お姫様たちは身代わりとして下女を海や川に行かせて、身を清めていたそうです。

 

しかし、春まだ浅い時期に川に入るのは大変なことから、やがて紙や草で人形(ひとがた)を作り、自分の身を撫でて厄や災いを「ひとがた」に移し、それを海や川に流しました。それが今でも残っている流し雛の行事です。

 

一方、源氏物語にも登場しますが平安貴族のお姫様たちには「ひいな(小さな人形)遊び」というままごと遊びを楽しんでいました。この「ひいな遊び」と「ひとがた」を流す行事が長い歴史の中で結びつき、雛祭りという形になりました。

 

 

「雛御殿の歴史」

 

雛人形の歴史の中で、雛御殿(紫宸殿風)で現在確認できるルーツは、平安時代の物語・源氏物語絵巻・五巻若紫中に、ひいな御殿で遊ぶ姿が有名です。この頃には既に人形遊びとして作られていた事が想像されます。

 

 

もちろん、現存する雛飾りとしている物の殆どが、古い物で江戸後期・町人文化の栄えた文化文政時代と言われ、この時代に雛人形の普及も全国に広がり色々な雛が登場した時代でもありました。

 

文学界でも、この源氏物語の大ブームが起こり、雛人形の世界の中でも、ひいな御殿の雛御殿が登場したと考えられます。江戸時代の御殿飾りのその多くで、現存確認できのるは、京都を中心とする近畿圏になります。御殿を見せるための雛飾りですから当然、雛人形は安物になり、三文雛などとも呼ばれています。

 

やがて、東京遷都と共に、東京でも、京への憧れと共に紫宸殿型の白木雛御殿が名家や爵位を持った方々に好まれ明治後半には、大手百貨店でも京人形と共に販売がされました。

 

 

明治末期から大正時代の頃には、あまりの御殿の人気に京都の生産だけでは注文に間に合わなくなり、静岡県駿府地方の工場に雛御殿の生産を依頼しました。そこから、全国に広まったようです。このブームは、昭和初期に入っても衰えを知らず、特に関東をはじめ、地方で人気が爆発的に起こったようです。

 

 

やがて太平洋戦争と共に、雛人形も質素となりましたが、終戦後には、第一次ベビーブームと共に雛御殿は、特に静岡物(関東型)は値ごろ感があるために人気がありました。派手な造りで煌びやかで大型な御殿が登場し始め、全国にその姿を見るようになります。

 

やがて昭和も30年代後半を迎え、生活環境も豊かになり、御殿の組み立てや、その仕舞い方などに手間が掛かるため、雛人形は段飾りが中心となりました。以来、雛御殿の人気がなくなり、生産は昭和38年頃で終ったと言う事です。その後も、人形店の倉庫に雛御殿の在庫品はあったようですが、陽の目を見る事は無かったようです。

 

「花和楽の湯 ひな祭り」

 

花和楽の湯は開湯以来、この時期に飾りますお雛様を少しずつ少しずつ増やし飾ってまいりました。また、新型コロナウィルスの災厄を祓うという思いも込めまして、一昨年より、館内を「花和楽の湯 ひな祭り」と題し開催してまいりました。

 

 

さて、今年は明治末期の京雛御殿(京都市 上田家より)や京都の雛道具、また、関東雛御殿を揃えました。京雛御殿と関東雛御殿の違いやその歴史や佇まい、雛人形の顔や向き等の違いも発見してもらえれば、より雛人形の奥深さがご理解いただけると思います。

 

 

節句人形蒐集(しゅうしゅう)研究家

石原 富士雄